2018.10.17 12:35その昔、皇子の子孫が住まわれていた園田地区の北東、大阪府豊中市と境を接する椎堂の地名が文献 資料に初めて登場するのは安土桃山時代の文禄三年(一五九 四)の「摂州河辺郡椎堂村御検地帳」(門田隆夫氏文書)で す。 天正10年(一五八二)、羽柴秀吉は織田信長を討った明智光 秀を倒した直後から、支配下に入った地域で田畑の面積や収穫 量などを調査する「太閤検地」として知られるこの検地は秀吉 が亡くなる慶長三年(一五九八)まで全国規模で続けられまし た。 ちなみに、「太閤」は摂政や関白を子弟に譲った人に対する 敬称です。 秀吉は養子の秀次に関白を譲ったことから太閤と呼ばれるよ うになりました。 後世、「太閤秀吉」が有名になったため、太閤といえば秀吉 と思われがちですが、実は歴史上、太閤は秀吉以外に...