園田地区の北東、大阪府豊中市と境を接する椎堂の地名が文献
資料に初めて登場するのは安土桃山時代の文禄三年(一五九
四)の「摂州河辺郡椎堂村御検地帳」(門田隆夫氏文書)で
す。
天正10年(一五八二)、羽柴秀吉は織田信長を討った明智光
秀を倒した直後から、支配下に入った地域で田畑の面積や収穫
量などを調査する「太閤検地」として知られるこの検地は秀吉
が亡くなる慶長三年(一五九八)まで全国規模で続けられまし
た。
ちなみに、「太閤」は摂政や関白を子弟に譲った人に対する
敬称です。
秀吉は養子の秀次に関白を譲ったことから太閤と呼ばれるよ
うになりました。
後世、「太閤秀吉」が有名になったため、太閤といえば秀吉
と思われがちですが、実は歴史上、太閤は秀吉以外にも多数い
ました。
太閤検地は尼崎市域では文禄三年に実施されていますが、台
帳の「検地帳」は大半が失われているため、「摂州河辺郡椎堂
村御検地帳」は尼崎市域での太閤検地に関する貴重な資料で
す。
また、当時の椎堂村の田畑の様子が具体的にわかる資料とし
ても重要です。
地名の初見は安土桃山時代ですが、周辺には弥生時代の遺跡
が数多くあり、早くから人々が生活を営んでいたことが考えら
れます。
「日本書紀」には第二八代宣化天皇の子の火焔(ほのおの)皇子(おうじ)を祖とす
る「椎田(しいだの)君(きみ)」という古代氏族がいたことが記述されています。
古代の氏族の系譜を集成した「新撰(しんせん)姓(しょう)氏録(じろく)」では同じく火
焔皇子の末裔とされる川原(かわはらの)公(きみ)や為奈(いなの)真人(まひと)がみえ、朝廷が編纂
した歴史書「日本三代実録」の元(がん)慶(きょう)四年(八八〇)一〇月条
によれば両氏族が河辺郡や有馬郡に居住していたことが記され
ています。
このため、同族の椎田君も河辺郡に住んでおり、その居住地
が椎堂と呼ばれるようになったのではないかという説がありま
す。
中世になると当地付近一帯は藤原摂関家領の荘園(しょうえん)の椋(くら)橋(はしの)
荘(しょう)が猪名川をはさんで東西に分立した椋(くら)橋(はしの)西荘(にししょう)の領域に
なっていたと推定されます。
太閤検地では椎堂村の石高の合計は三五九石余でしたが、江
戸時代後期の記録では村高は約三七七石でした。
領主は初期には幕府領または大阪城代領と旗本知行所との入
り組みになっていましたが、後に全て幕府領となり、武蔵(むさしの)国(くに)忍(おし)
藩(はん)領となった後、再び幕府領となって幕末を迎えました。
安政五年(一八五八)の記録では家数は四一軒、人数は二〇
七人でした。「椎堂村村方模様書上げ帳(門田隆夫氏文書)」。
明治二二年(一八八九)四月の町村制施行で園田村が成立す
ると椎堂は同村の大字となり、昭和二二年(一九四七)以降は
尼崎市の大字となりました。
明治期に参謀本部陸軍部測量局が作成した「仮製二万分一地
形図」の「伊丹町」の椎堂村付近(下図)を見ると、現在の椎
堂一丁目の東端、猪名川公園に接するあたりに集落があるだけ
で、ほかは田畑が広がっていました。
昭和五年(一九三〇)一二月に開設された園田競馬場もまだ
描かれていません。
恐らく江戸時代もこのような田園風景が広がっていたと思わ
れます。
また猪名川の流路は現在とは異なり、椎堂から冨田にかけて
大きく蛇行していました。
昭和四〇年(一九六五)から四五年の河川改修工事で椎堂付
近の旧流路は猪名川公園となっています。
かつて、旧流路のあたりに「だらん所」と呼ばれる淵があ
り、猪名川の水運が盛んなころには船着き場になっていたとい
います。
「銅乱いました」は薬や印などを入れて腰にさげる長方形の
布または革製の袋ですが、上方落語の演目「銅乱の幸助」の主
人公幸助のように財布代わりに使う人もいました。
地元では船着き場で商売人たちが「銅乱」から金を出して取
引していたことから「どうらん所」の名がついていたと伝えら
れています。
文責. 尼崎市立文化財収蔵庫
学芸員 楞(かど)野(の) 一裕
0コメント